New Treasure 3 Lesson11
L11-1 英語に直しましょう
なんて面白い番組なんでしょう!
もしケビンがここにいたら、彼は笑いに笑ったでしょうに。
それを録画し忘れるとは彼は不注意でした。
心配しないで、私は覚えていました。
私は約20時間分の彼の好きなテレビ番組を録画してきました。
彼が戻った時彼が見るための番組はたくさんあるでしょう。
そうですね、もし彼がここにいたら、それらを全て見たがるでしょうね。
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L11-2 英語に直しましょう
カルロス、あなたの祖父母がここにいらっしゃると聞きました。
ああ、ゆみ、彼らはちょうど出発したところです。
彼らは今日ブラジルに戻らなければなりませんでした。
もし君がもっと早く来ていたら、彼らに君を紹介できたのに。
あら。もし私が知っていたら、私は今朝来てそして彼らにいくつかおせんべいを持ってきた
のに。
さて、私はまだここにいます。
もしそうしたいのなら、あなたは私にいくらか持って来ることができます。
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L11-3 英語に直しましょう
ああ、おばあちゃん。 この休日はずっと素晴らしいよ。
僕がもっと年をとっていて学校に戻る必要がなければいいのになあ。
永遠にここにいられたらいいのになあ。
まるで家に帰りたくないかのように話しますね、ケビン。
ほんとうにそうなんだ。
でも毎年イギリスに来ることができるほどお金持ちだったらいいのになあ。
そうですね、たぶんあなたはイギリスの大学に来るかもしれませんね。
それはよさそうだ!
僕はまだ訪れていないイギリスの他の場所を訪れたい。
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L11-Read① 英語に直しましょう
2010年6月13日、日本の人々は喜びました、なぜならはやぶさという名の宇宙船が首尾
よく地球に戻ってきたからです。
はやぶさはまるで流れ星のように燃えてぴかぴか光りながら戻ってきました。
その光景は多くの人々に感銘を与えました。
はやぶさは2003年に打ち上げられた小さな宇宙船です。
それはJAXAの最も有名なプロジェクトの一つです。
その任務のゴールはこれまでなされたことのないものでした。
その目的は小惑星からサンプルを収集しそれらを地球まで持ち帰ることでした。
その旅の途中たくさんの困難がありましたが、その任務は大きな成功となりそれは
科学者たちにその小惑星の構成要素についてのとても重要な情報を提供しました。
それは日本人男性の糸川英夫にちなんで名づけられました。
糸川とは誰で、そしてなぜその小惑星は彼にちなんで名づけられたのでしょうか。
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L11-Read② 英語に直しましょう
糸川英夫は日本のロケットプログラムについての工学における先駆者でした、そして彼は日本のために宇宙科学の扉を開きました。
彼は1912年に生まれました。
彼は大変好奇心旺盛で才能のある学生だったので学校でいくつか学年を飛ぶことを許可さ
れました。
とても若い年齢から、彼は飛行機を作ると決心していました。
彼は一生懸命勉強して東京大学に入りました、そこで彼は航空工学を研究しました。
彼が大学を終了した後、第2次世界大戦が始まりました。
彼は戦闘機を設計している中島飛行機で働くように頼まれました。
彼は「はやぶさ」として知られる戦闘機を設計しました。
しかしながら、たくさんのはやぶさ型戦闘機が神風任務で破壊されました。
糸川は神風任務の使用に反対でしたそして同じ目的のために無人の誘導ミサイルを生産した
いと思っていました。
不運なことに終戦で日本の航空産業が閉鎖されたとき彼は航空学においての仕事を
あきらめさせられました。
会社を去った後彼は医療の目的のための機械を発明するために勉強しました。
ある日彼は偶然宇宙探索についての記事を見つけました。
彼はアメリカが宇宙へ旅をする計画を持っていると気づき、日本もまたこの能力を持つべきだ
と考えたのです。
飛行機からロケットへと移行しましたが、彼の飛行への興味は再び蘇りました。
もし彼が記事を見つけていなかったら、日本のロケットプログラムは何十年間も遅れていたかも
しれません。
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L11-Read③ 英語に直しましょう
彼のロケット開発の作業が始まりました。
彼には政府の出資がなかったにも関わらず、彼は1955年に最初の日本のロケット、
ペンシルロケットを開発しました。
それはたったの23cmでしたが、のちに、彼のチームは徐々により大きな高さにして
異なるロケットを打ち上げました。
6キロメートルから始まって、それから彼らは何十、何百キロメートルの空中を飛ぶロケットを
持ちました。
最終的に1964年、糸川教授は現在ISASとして知られる研究機関を設立することができ
ました、そして同じ年にランブダと呼ばれるタイプのロケットが1000キロの高さまで発射され
ました。
しかしながら、進歩はゆっくりでたくさんのこころみは失敗に終わりました。
1960年代後半、4機のランブダロケット(L-4S)は首尾よく発射されることはできません
でした。
糸川教授はよく知られているように言いました、「人生において、重要なことは失敗の
歴史だ。」
それは私たちは失敗から学びそして次に成功するという意味です。
糸川教授は1967年に引退しました、しかしその研究機関のメンバーは彼の研究を続けました、そして1970年に、彼らは日本での最初の衛星「おおすみ」をなんとか打ち上げました。
この衛星は33年間軌道を回り続けました。
偶然の一致ですが、それははやぶさが発射されたのと同じ年に地球に戻ってきました。
悲しいことに、糸川教授は1999年に亡くなりましたそしておおすみの帰還を見ることが
できませんでした。
しかし彼は驚嘆すべき人生を送り、彼が直面した多くの困難にも関わらず、日本の大いに
成功した宇宙プログラムの責任を大部分を負っていました。
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L11-Read④ 英語に直しましょう
彼のこの分野での彼の成功の起源は彼の教えの一つにあります。
「一度に一段ずつ登りながら、階段をのぼるようにゴールを目指せ。
最も重要なことはその最初の一歩を踏み出し、それから一つまた一つと上へと続けていくこと
だ。」
この姿勢は日本の航空宇宙学の機関のその他の研究者たちに受け継がれてきました、そして
糸川教授の死から何年も経ってもまだ存在しています、そしてそれは間違いなく彼らが
はやぶさの任務に遭遇した時に役に立ちました。
この理由のために、彼らははやぶさが訪れたその小惑星の名前を「イトカワ」と名付けることを
決めました。